2012年9月1日土曜日

シンガポールの水資源探訪5 (積田淳史・三木朋乃)



 前回の記事では、シンガポールと日本の水ビジネスについて概観し、シンガポールに比べて日本が立ち後れている現状を指摘しました。今回の記事では、シンガポールのビジネスや政策について詳しい方々へのインタビューを通じて、その立ち後れの原因を考察していきます。

インタビューに応じてくださったのは、JSTシンガポール事務所の山下氏と矢野氏




インタビュー概要 

 インタビューに応じて下さったのは、JST(独立行政法人 科学技術振興機構)・シンガポール事務所の、山下篤也所長と矢野雅仁シニアプログラムオフィサーの2名です。
JSTシンガポール事務所は、4つあるJST海外事務所(パリ、ワシントン、北京、シンガポール)の1つです。JST海外事務所は、(1)JST事業の支援、(2)情報収集・発信、(3)日本の科学技術プレゼンス促進、を目的とし、日本の「科学技術外交」の一翼を担っています。中でも、シンガポール事務所は、成長著しい南アジア・東南アジア地域を総括する、重要な組織として位置づけられています。山下氏、矢野氏のお二方は、シンガポールの事情に詳しいのみならず、日本政府・日本企業の施策にも高い関心を有しており、我々の疑問に対して示唆に富むお話を聞かせてくださいました。

※インタビューは、26日・23日の2回に分けて行われた。本記事は、インタビュー中のメモを基に書き起こしたもの、および、その後のメールによる対話を基に執筆されている。従って引用部分は原文通りではないが、全てインタビュイーにご確認頂いたものである。


シンガポールの水ビジネスが進んでいるはなぜか?

この問いかけに対しては、シンガポールの置かれている地理的・政治的事情が理由として大きいと矢野氏は指摘します。

「マレーシアからの水供給に依存している同国にとって、水の確保は死活問題です。そのために海水から真水を得るための技術などを積極的に取り入れたことが、同国を水ビジネスのハブへと押し上げる原動力になったと言えます。日本企業の方に話を聞くとわかると思うのですが、もはや水業界では同国のプラント事業主・HyFulx社と組まずに世界で仕事をするのは難しいという声も聞こえます。」(矢野氏とのメールによる対話より著者編集)

こうした切実なニーズに加えて、さらに山下氏は公的機関の権限の大きさと、トップダウンによる意思決定の迅速さがビジネスを短期間で拡大させた要因になったと指摘します。
山下氏によれば、歴史の浅いシンガポールは、教育・技術・産業など多くの面での蓄積がまだ少ないため、トップダウンの統治構造のもと、先進国に追いつこうと徹底的なエリート教育と優秀な海外研究者の誘致を行っているといいます。統治構造の上位階層を占めるのは、日本でいう小学校5年生の時に行われる全国統一学力テストで高得点を収めた人たちです。早い段階からエリートとして選抜された彼らは、その後、軍や政府機関に支援を受けながら留学をし、実務を通じてマネジメント教育を施された後、政府省庁に派遣されます。人事は徹底的な実力主義が貫かれてり、30代で次官になることもあるそうです。
若く優秀なリーダーに率いられた省庁には、権限と資源も与えられます。経済開発庁(Singapore Economic Development BoardEDB)や環境省(Ministry of the Environment and Water ResourcesMEWR)、科学技術研究庁(Agency for Science, Technology and Research A*STAR)などの各省庁では、それぞれの目的に従って、中長期的な将来を見据えながら積極的に投資を行います。最近では特にバイオ関連に力が注がれており、ノーベル賞級の海外研究者を誘致し、研究と大学院教育の拡充に努めています。徹底的なエリート教育と、優秀な海外研究者の誘致は、明治時代の日本政府のやり方によく似ていると山下氏は指摘します。当時の日本政府が綿花という重要な輸出産業を育成したのと同様に、シンガポール政府も何らかのビジネスを育成しようとしているようです。


JST事務所がある、Biopolis。シンガポールの科学教育の拠点の一つ。
理研シンガポール連絡事務所や、早稲田大学バイオサイエンス研究所も同じ建物にある。

シンガポールとパッケージビジネス

ただし「この方法がベストとは言い切れない」と矢野氏は指摘します。

「結局、これは“外人部隊”に依存するようなもので、シンガポール人の若手育成に向ける力が分散されてしまっているように思えます。また招聘された研究者らは、条件次第でいつでも国を出て行ってしまう。そのため、組織の人材が絶えず流動的となり、長年にわたる基礎研究の積み重ねができません。したがって、同国が科学技術立国として先導していくことはできず、むしろ科学技術を取り扱った商社的な機能を発達させていくのだと考えらます」(矢野氏とのメールによる対話より著者編集)

例えば1990年代、シンガポール政府は日本のハードディスク製造企業を誘致し、アセンブリの拠点として一応のビジネス上の成功を収めました。しかしながら、技術者の育成は進みませんでした。同国の優秀な学生は金融系を志望する傾向にあったため、技術者の質量が不足しており、日本企業からのスピルオーバー効果も限定的なものでした。
また、エリート教育の問題点もありました。エリート教育は優秀なマネージャーを育てるには向いているのかもしれませんが、反面、アントレプレナーが育ちにくいというデメリットがあったのです。これらを理由の一つとして、シンガポールには長い間、産業らしい産業が育っていません。

「これらの理由からシンガポールはある時点から“パッケージ・ビジネス”を志向するようになったのではないか」というのが山下氏の考察です。ものづくりの歴史と基盤の厚い日米独にはもはや追いつけないから、その代わりにそれらのモノ(設備、装置)をパッケージングし、ノウハウを加えて売ろう、というのが彼らのアイデアの核です。

「例えば日本の商社が水ビジネスを提案しようとすると、あらゆる設備・機械を日本企業で固めようとするでしょう。それらは高品質かもしれないが、価格・性能の組み合わせの幅は狭くなります。ところがシンガポールの企業ならば、日米独あるいは韓国や中国の製品も組み合わせて、より柔軟なパッケージを準備できます。さらに、場合によっては発電システムもセットで販売するなど、大規模なパッケージも用意できるのです」(山下氏のインタビュー・メモより筆者編集)

実際、シンガポール政府は、こうした商社的ビジネスにのりだそうとしている国内企業を様々な面で優遇しているといいます。税制優遇、各種の科学技術振興施策などはもちろん、非常に特徴的だと思われるのは、国内での社会的実験を認めている点でしょう。例えば、日本のETCにあたる設備をより発展的にさせたシステムを国内幹線道路に配備し、交通量のコントロールと通行料の徴収を行うシステムは、その代表例といえます。同国政府は、それらのシステムを実験的に国内に配備し、改良し、そして一定の水準に至ったならばそれを海外で販売しようと意図しているようです。同じような実験が、鉄道、そして水(取水・上下水道・浄水)でも行われています。実績の無い国内企業ハイフラックス社に国内水道事業を受注させ、経験を積ませた結果、同社は実際に海外で水ビジネスの受注を広げ始めています。こうした国のバックアップが、同国の水ビジネスを強く後押ししているのではないか、というのが山下氏の考察です。

勝敗を分けるマーケティング能力

こうしたバックアップに加え、もう一つ見逃せないのが、同国企業のマーケティング能力の高さです。中国やアフリカを中心としたいわゆる発展途上国は、どのような水資源管理システムを欲しているのか。シンガポール企業や政府は、顧客ニーズの把握が実に巧みだと言います。
矢野氏は、こうしたアプローチの一つとして、「マーケティング・サイエンス」ではなく「サイエンス・マーケティング」が必要だと、新しい考え方を提示してくれました。矢野氏の造語である「サイエンス・マーケティング」とは、相手国に製品やサービスを(有償・無償で)提供する際に、製品やサービスではなく相手のニーズに適った科学技術の束を持ち込む、という考え方です。

「日本企業は、自社で製造している製品の高品質度を売りにして、販促していきます。しかしそれは性能超過である場合が多く、しかも高額なため、売れません。発展途上国ならば、泥水が飲めるようになればいいのであって、おいしさなどは求められないはずなのに、こうした当たり前のことができていません。これが、中国、韓国にビジネスを取られる1つの理由と思っています。」(矢野氏とのメールによる対話より著者編集)

製品やシステムを、製品やシステムとして理解するのではなく、その背後の科学技術のレベルまで立ち返って、相手国の科学技術の水準や内容との適合性を考える。こうしたよりメタな視点でのマーケティング能力は、確かにシンガポール企業に一日の長があるのかもしれません。シンガポール企業が提供する水資源管理のシステムの特徴の一つは、管理運営が非常に簡単であるということです。日本企業が志向するようなフル・オートメーションは、全自動であるがゆえに通常時の運営は非常に容易ではあるものの、その設置コストは高く、また非常時の対応は困難なものになります。一方、ある程度は人手を関わらせるセミ・オートメーションならば、日常的にオペレーターがシステムに触れることになるので、システムの理解も進み、良い意味での冗長性が高まります。
相手国の「管理運営が容易な方が良い」というニーズに、より直接的に答えているのはフル・オートメーションかもしれませんが、より適切にフィットしているのはセミ・オートメーションだと捉えることもできるのです。


 インタビューを振り返って

国のバックアップと、マーケティング能力。今回のインタビューでは、これら2つの要因が、日本とシンガポールの水ビジネスの優位性の違いとして示唆されました。山下氏と矢野氏は、こうした違いを踏まえて、「いっそのこと、日本企業はものづくりに特化して、マーケティングやパッケージングはシンガポール企業に任せるという手もあるのではないか」と私見を述べてくださいました。お二人によれば、シンガポールの政府や企業は、能力が高く、契約を守り、日本をリスペクトしてくれているから、ビジネス・パートナーとして非常に大きなポテンシャルを秘めているそうです。それにもかかわらず、日本政府や企業は、世界におけるシンガポールの重要性に比して小さすぎる関心しか同国に寄せていないのも悲しいことに現実だそうです。

 マーケティングとものづくりという国際的分業が成立するかどうかは、我々の議論の範疇を超えていますが、少なくとも、日本は国際ビジネスを展開する上で足りないもの(もしくは過剰なもの)は何か、本質に立ち返って探る必要がありそうです。JSTの海外事業に携わり、日本の科学技術を海外に根付かせるために日夜努力を重ねているお二人のインタビューからは、大きな示唆を得ることができました。どうもありがとうございました。